富澤一誠

エレック・レコード時代の歌は現実を超えた“すごい歌”である!

 歌は歌であって、実は歌ではない、という時代がありました。どういうことかというと、スタイルはあくまで歌だが、それを超えてしまう“何か”があったということです。換言すれば、歌は己の自己表現の一手段だったということです。かつて、フォークの時代は、歌とはそういうものでした。歌にアーティストの生きざまそのものが反映され、聴き手は歌を聴いてアーティストの“生きざま”に共感を覚えたのです。そんな時代に作られた歌は現実を超えていたのです。

 

歌が現実を超えるためには、歌を作るアーティストが、その日常生活における生きざまでも私たちの現実を超えていなければならない、ということです。そのためには、アーティストは私たち以上にストイックな生活をし、洞察力を持たなければなりません。それがアーティストの“使命”と言っていいでしょう。

 

そんな使命を果たしたからこそ、吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸、ケメ、生田敬太郎、海援隊、佐渡山豊などのフォーク・シンガーの歌には、燃えたぎるような“熱い想い”が凝縮されていたのです。最近は“ゆるい歌”が多すぎます。だからこそ、フォーク時代を代表するエレック・レコードの“熱い想い”が凝縮した“すごい歌”が必要とされているのです。

 

 

エレック・レコードが青春時代の“学校”だった!

 新宿の風月堂にヒッピーがたむろし、アートシアター新宿文化に芸術家の卵たちが集い、吉田拓郎、泉谷しげるなどフォーク・シンガーが新しい時代を歌い、そしてエレック・レコードがそんな熱い“フォーク魂”を持っていた若者たちの溜まり場だった。

 

1971年、ぼくは20歳。吸い寄せられるようにエレック・レコードの“住人”となる。きっかけは拓郎の歌を深夜放送で聴き、刺激を受け大学を辞めてしまうことになったからだ。70年に東大に入ったものの、入学して3ヵ月目からはほとんど講義には出ないで、大学近くの喫茶店に入りびたってばかりいた。しかし、こんなはずじゃなかった、という思いは持っていた。その“思い”を拓郎の歌が刺激したのだ。拓郎との出会いで、ぼくは拓郎のように行動を起こさなければならないと決心した。その結果、フォーク専門誌「新譜ジャーナル」に投稿することになる。

 

とある日のこと、書店に入って何か面白い本はないかと物色していると、フォークの神様“岡林信康”特集という活字が目に飛び込んできた。さっそく買い求め、近くの喫茶店で読んでいると無性に腹が立ってきた。岡林、拓郎、泉谷しげる、古井戸のライブを生でみていただけに、なんだこの記事は、こんなことしか書けないのか、と思ったからだ。こんなのだったら、ぼくの方がよっぽどましだ。そんな思いが湧き上がってきて、その場で思いのたけを文字にしていた。書き上げた評論にメッセージを添えて、「新譜ジャーナル」編集長宛に郵送した。結果的に、この投稿がぼくに幸運を呼び込むことになる。

 

投稿して1週間ほど経った頃「会いたい」という連絡が来た。指定された日に訪ねると編集長から「音楽評論家としてやってみる気があるのだったらバックアップする」という申し出があった。チャンスだ、と思った。「ぜひやらせて下さい」──この一言でぼくの人生は決まった。ラジオ関東の若者発掘番組<ディスカバー・ヤング>に出るように薦められた。これはミュージシャン・DJ・レポーター(評論)のアマチュア発掘番組で、この番組のレポーター部門に出たことで、この番組の“審査員”だったエレック・レコード専務の浅沼勇プロデューサーに認められることになる。こうして、ぼくはエレック・レコードへ出入りを許され、そこで泉谷しげる、古井戸、ケメ、生田敬太郎などと知り合うようになるのである。その頃はまだみんな無名の若者たちだった。しかし、ひとつだけ共通していたことは、“何か”に燃えていて、“何か”をやろうというエネルギーだけはあった、ということだ。ぼくはここでいろいろなことを経験したし学んだ。泉谷、古井戸などアーティストからは創作パワーを、そして浅沼プロデューサーからは音楽の何たるかを、また仲間からは情熱をもらったと言っていい。その意味で、エレック・レコードが青春時代の“学校”だった、と確信している。

 

 

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