竜とかおる(佐藤龍一コメント)
エレックレコードとワタシ
エレックレコード! 反乱と狂騒の楽しいサーカスが終わって30年の日々が過ぎた。
1972年夏。僕は19才だった。千葉でとみたいちろうや伊藤薫と共に、アマチュアのコンサートを主催していた。生田敬太郎さんをゲストに迎えた時に、3人一緒にエレックレコードから声がかかった。貧乏のどん底で野望に燃えていた僕らは、その話に飛びついた。同年暮れ、僕とかおるは<龍+1>として「オニ オニ島失踪事件の唄/競馬場のある街はずれに」というシングルでキャニオンからデビューする。
第二期唄の市。同期には海援隊や佐渡山豊、丸山圭子らがいた。エレックは学校のようだった。不良少年だった僕らは躾けられ(笑)、音楽を含めて色々な事を教わった。
会社のビルの中にメイトルームという場所が設けられ、暇な時はそこでファンの子達と交流したり、ミニコンサートをやったりして過ごした。龍+1のデビュー当初はリードボーカル、作詞、作曲を僕が担当していたのだが、バンドを続ける中で、かおるが作曲や歌の才能を発揮し始め、僕らは<竜とかおる>と改名した。
翌年いちろうが「テイクワン」でアルバム・デビューし、僕らも沢田駿吾さんのサポートを得てアルバム「ひとつのめぐり逢い」を完成させた。僕らはピピ&コットと共に「ケメの音楽会」ツアーのオープニングアクトを努め、古井戸のリサイタルのゲストに出演させてもらったりした。
74年のアルバム発売直後「竜とかおる」はアコギをエレキに持ち替え、ドラムとベースを入れてロックバンドスタイルに変身する。「エミリア」というシングルでは自ら編曲もやらせてもらい、売れ行きも比較的好調で、ぼくらはやっと自分達のやりたかった事ができるようになっていった。同じ頃エレックで、エスパーサウンズという企画が持ち上がり、僕らはずーとるび、まりちゃんず、関西から来た四季、ヤマハから来たベルの4組と共に活動するようになる。だがその夏が過ぎると、会社の空気が怪しくなり、同時に僕自身がソロ活動を始めたくなって、周囲の反対を押し切って、竜とかおるは解散する。
僕はエレックを一度離れ、当時モデルとして売れっ子だったエルザの事務所に籍を置いて、エルザのサポートをしながらソロ活動を始めた。後にかおるや三上寛も同事務所に加わり、一緒に全国をツアーした。同年暮れにトリオ・レコードからソロデビューのシングル「あわせ鏡」を発売。やがてエルザのレーベル(トイボックス)自体がエレックの傘下に加わり、僕のソロアルバム「あわせ鏡」はエレックから発売された。上田力さんのピアノ以外は全編ギター一本の弾き語りで、A面には溝の切れ目がないという売れ線からは程遠いものだった。中ジャケには憧れの漫画家永島慎二氏が絵と文章を書いてくれた。
76年には、四人囃子にいたアレンジャー/キーボード奏者の茂木由多加と知り合い、佐久間正英氏らの参加を得て「スキャンダル」というサイケデリックなアルバムを完成させるのだが、シングル「最後のジルバ」が発売された直後、エレックレコードというフォーク業界のタイタニックは、轟音とともに海の藻くずとなったのだった。
既に救命ボートの用意されていたもの、流木に掴まって何処かの岸に辿り着いたもの、沈んでいったもの、行方不明のもの...。その後30年、様々な人生模様があったのだろう。
永島慎二も茂木由多加も既にこの世にいない。だがエレックのスタッフやミュージシャンの多くはしぶとく、もしくは華々しく業界の何処かで生き延びていたようだ。僕はといえば、気持ちは世界に向かっていた。76年の暮れに日本を後にし、東南アジア、インド、中近東を経てドイツへ向かった。その後も何度か放浪を繰り返し、アメリカ大陸を3度横断し、ニューヨークで生活し、ジャマイカに5回行き、30ヶ国を旅した。
日本では歌人の福島泰樹さんと組んで短歌絶叫コンサートを始めたり、谷川俊太郎さんの現代詩に作曲したり、ロックバンドをやったり、ゲーム音楽やビデオのBGM、専門学校の講師など、様々な活動をしていたけれど、昔の仲間と顔を会わせる事はなく、後で聞いた話によれば「龍はインドで溺れて死んだ」という噂が流れていたそうだ。
2007年4月、僕は再びギターを取って歌い始めた。新宿と船橋の2カ所でマンスリーコンサートを始め、元ピピ&コットの金谷君の店「風に吹かれて」で生田敬太郎さんとジョイントライブをやった。ライブには元まりちゃんずの藤岡君や元ずーとるびの新井君、ピピの早川君や元エレックのスタッフの人達も見に来てくれた。精力的に活動を続けているよしだよしことも再会した。僕はホームページとブログを始め、ネット上で多くの仲間やファンと再会を果たした。夏には元ベルのトムや元四季の牧田、元スモーキー・メディスンの藤井章司を加えて、The ElecTrixというロックバンドを結成し、10回のライブをやった。
生き延びている連中はみんな元気だった。Mojo名義で活躍している旧友とみたいちろうとスーパーソウルダイナマンブラザースというユニットを組んだ。
新生エレックレコードから「ひとつのめぐり逢い」の復刻CDが発売になっているのをネットで見つけた時は、正直言って「なんで今さら」という気持ちがあった。でもそれを知って涙を流して喜んでいるファンの人達の書込みを目にした時、僕の心に浮かんだのは中島みゆきの名曲「永遠の嘘をついてくれ」の歌詞だった。
「君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ 」
吉田拓郎に捧げられたこの唄は、ファンの気持ちを代弁していると思う。僕もまた拓郎や古井戸のファンであった。紀伊国屋ホールで行われたデビュー当時の拓郎マンスリーや、
古井戸の渋谷公会堂リサイタルで聴いた「花言葉」など、忘れられないシーンが沢山ある。
それはアーチストの都合とは関係なく、音楽ファンの真実の瞬間として焼き付いているのだ。
一ファンとしてその感動を思い浮かべる時、復刻には意味があると考えるようになった。
「永遠の嘘」でいい。実際にあった事も、実際にはなかった事も、勝者の手で書かれた歴史も、死者のにぎやかな沈黙も、全ては「そんなの関係ねえ」2007年。音楽の真実は感動にあり、それは聴いてくれるひとのものなのだ。
はたちそこそこだった僕らは無知で非力で未熟なくせに生意気だった。
その事実と直面するのは耐えられないくらい恥ずかしいものがある。だがそれもまたどうでもいい事。
重要なのはそれらの音楽が、誰かに取ってかけがえのない宝物だという事だ。世界の何処かその歌を愛してくれるひとがいる限り、僕らが言える事は「ありがとう」の他にあるだろうか。彼/彼女等と唄との聖なるラブ・アフェアーには、作者といえども立ち入る事は許されないのだ。あわなければよかったひとなど、ひとりもいなかった。
■ホームページ:「ギターを取って弦を張れ」
http://wiki.livedoor.jp/miotron/d/FrontPage
■ブログ:「流星オーバードライブ」
http://blog.livedoor.jp/miotron/
